今私たちは、教育についての考え方の変更を迫られています。だが何をどういうふうに変えたらいいのか。それは必ずしもさだかではありません。しかしここに、半世紀以上も地道に続けられてきたひとつの教育運動、教育学の成果があり、これを見る人々を感動させています。

セレスタン・フレネ(1896~1966)が1920年代に始めた今日言う「子どもの生活、興味、自由な表現」から出発し、印刷機や様々な道具、手仕事を導入して芸術的表現、知的学習、個別教育、協同学習、協同的人格の育成を図る教育法は、フレネなき今も「現代学校運動」として発展を続けており、フランスの公立学校では約1割の教員が実践、スペイン、ドイツ、ブラジルなど諸外国へも広がっています。

現在日本の学校問題、教育問題を考えるとき、自由で幸せでしかも高度な知識、芸術的能力を身に付けたフレネ学校の子ども達は、多くの点で示唆を与えてくれます。


フレネは戦前・戦後を通じ一貫して、生活と教育を結びつけることを追求し、そのための多くの学校技術を開発しました。
その技術の基礎となったのは、わが国の生活綴り方教育運動にも似た、学校印刷所運動です。

1920年、彼は南フランスの山の中の小さな学校に赴任。しかしそこで彼を待っていたのは、子どもの世界とかけ離れた教科書とその説明に終始する教師、その反復練習のためにすっかり学習意欲を無くした子ども達でした。彼はやる気をなくした子ども達のために、午後の時間を使って散歩教室を始め、村の小川や野原を歩いたり、畑や職人達の仕事場を見てまわったりしました。彼らは好奇心と活力にあふれた表情をみせ、教師と親しげに語り合うようになりました。彼らは教室に戻ると、散歩から持ち帰った収穫物を見せ合ったり、見てきたことを話し合ったりしました。しかし子ども達の好奇心も活力もそこでストップしてしまったのです。子ども達は再び読みやつづりの学習のために教科書を開くしかなかったからです。


フレネは、散歩教室で発揮される子どもの活力を、どうしたら学習の中に持ち込むことができるかを考えました。
彼は教室に印刷機を備えつけ、子ども達が綴った文を印刷しそれを教科書にかえて「自由な教科書」として使うことを考えたのです。やがて彼は、理性的共同体における人格の自己形成を目的とした教育学を、学習材と教育技術の土台の上に建設することを主張。生活を観察し、表現し批評し合うなかで生まれる興味の複合の探究のための学習文庫や協同学習カード、計算や読み書きのためのカードを協同組合方式によって開発、これらの学習材と学校文集や学校間通信などの教育技術の裏付けをともなって教科書による一斉授業の廃止を提唱し、仕事を基礎とした個性化と協同化の2大原理による実践を組織したのです。このような彼の試みは彼亡き後も、現代学校運動として今日に引き継がれ、世界38カ国以上で実践されています。

 

フレネ・ミニ伝記

1896年

0歳

農家の第4子として、アルプーマティリウム県(Alpes-Maritimes)ガール村(Gars)に産まれる。慎ましい農家の子どもとして家業を手伝い、羊飼いの仕事を楽しんで行う。この時の経験が学習の根源として形成される。宮沢賢治も同年に生誕しています。
1908年

12歳

地域の大都市グラース(Grasse)の高等小学校入学
1912-1914年

16−18歳

ニース(Nice)小学校教員養成師範学校入学、その2年後徴兵された教員の代用として近隣の小学校に赴任

1915-1917年 19−21歳

第一次世界大戦動員、3年後前線で砲弾の破片と毒ガスで負傷、治癒しない状態で終戦。

1920年 24歳

生まれ育った同じ地域の小村 バール・シュー・ルー(Bar-sur-loup)の小学校に助教教員として赴任。病弱のフレネは、子どもたちをコントロールできないことから、教育学を問い直し教育実践を模索する。また、文学に傾倒する中で執筆活動も行う。

1921-1926年 25-30歳

この間に、欧州の新教育運動関係者、文学運動関係者と出会い、子どもを中心とする能動的学習への開眼、「学校印刷機」のアイデアと実践を開始する。「カタツムリレースの自由作文の発見」

1927-1931年 31-35歳

エリーズと結婚、教育改革運動組織(CEL-La Coopérative de l'Enseignement Laïc世俗教育協同組合)を創設して、フレネ教育の原型(印刷機、学習カード、自由作文、コンフェランス、BT等)が形成される。隣町の観光地サンポール・ド・ヴァンス(Saint-Paul-de-Vence)に転勤する。

1932-1937年 36-41歳

1932年新教育国際連盟第6回ニース大会にて、確立されたフレネ教育実践が勤務地のサンポール小学校を舞台に紹介され、ペーターセン始め、欧州の新教育関係者に広く知られるようになる。しかし、斬新な教育実践が保守的な地域実力者を刺激し、その後暴力的対立を招く「サンポール事件」へと発展する。この出来事はフランスの教育界、言論界を巻き込んでフレネ教育の賛否が飛び交う事態になる、言論、行政はフレネ教育実践の優位性、真正性を認めるが、結局フレネ夫妻は公立学校を退職し、1935年隣町のVenceにフレネ学校(L'Ecole Freinet Vence)を設立する。保護を必要とする難民、ユダヤの子達を受け入れ発足する。

1938-1943年 42-47歳

この間運動組織CELの活発な活動から、フランスの教育改革に影響を与え、1939年新教育国際連盟でも「民主主義的理想に役立つ学校」と題した講演を行う。しかし、世界情勢が反民主化の流れの中で第二次世界大戦が勃発、自由作文も禁止されフレネ学校は休眠状態、1940年フレネが逮捕され、収容所に連行される。2年間拘束され健康を害しながらも、『仕事の教育』などの主要文献を執筆、各国からの要請を受けて釈放される。

1944-1949年 48-53歳

釈放後、レジスタン組織 Makiに合流、教育部門、南部フランスの責任者になる。パリが解放され、1945年フレネ学校が再開、戦後のフランスの教育改革に携わろうとするがアカデミズムから門前払いを受けて、自らの組織を通した教育改革運動に専念する。今につながる、ICEM(L'Institut Coopératif de l'École Moderne )1946年に発足し、個人崇拝を嫌うフレネは、この教育実践が「現代学校運動(Movement de l'École Moderne)」と名称するようになる。フレネ著作が次々と発刊される。エリーズによる芸術活動も活発に組織化される。また、1949年フレネをモデルとする劇映画「緑の学園」が公開される。

1950-1955年 54-59歳

ICEMが本格的に活動を開始、BT(学習文庫)等の学習材の開発、普及、販売などを手掛けていく。エリーズも芸術教育運動にコクトー、デビュッフェ、レジェらの参加を得て、機関誌「Art enfantin」を発刊。運動体の運営、フレネ学校の実践、学習材開発と教材会社経営と多忙な時期を過ごす。スターリンを嫌って、距離を置き脱退したフランス共産党から言論攻撃を受け続ける。

1956-1966年 60-70歳

 教材運営会社が倒産、復活するが経営危機終始続く。1957年に現代学校国際組織(FIMEM)が創設され、エスペラント語による世界にフレネ教育の展開を図ろうとしたフレネの希望が現実化する。1964年ヴァンスフレネ学校が教育実験校として、国から認可される。この間毎年ICEMの大会が開催され、公教育に関わる様々なテーマで、教育実践が深められていく。1965年 心理学者波多野完治がフレネと対談する。翌年196610月フレネ死去 生誕の地ガールに埋葬される。

 

「私たちは石を敷きました。それが私たちの後に来る人々が道を進み続けるのを助け、導くことを知っています。」

C. Freinet (DdM, p. 167; II, p. 201)

 

 

「フレネは初等教育を革命しようとした人である。あれこれいじるのでなく、初等教育における、教師と児童の関係を根本的に変え、これを今までとは、全く違った基盤に置こうとした人である。このような発想をしたフランス人は誰もいない、彼そこ真の革命家である」

1967年「Cérémonie de deuil de Frenet」パリ国立教育研究所 J.ヴォアル